「僕の名前は、ヘンリー・エドワード・ローレンス。ヘンリーと呼んで」
彼は可愛い微笑みを向け、平然とそんなことを言ってきた。
はい? やっぱりこの人変だ。どこかで頭でも打ったのだろうか。
いや、そもそも風呂から出てきたんだから、人間じゃないのかも。 宇宙人とか? いや、でも地球人っぽいし。 まあ、確かに外国人っぽい顔してる。うん。あ、外国人さんはいろんなところから出てこられるとか? いや、そんな話聞いたことないよ。私の頭の中はプチパニック状態だ。
呪文のように、落ち着け、と自分に唱えながら、私はヘンリーに笑顔を向けた。
「うん、ヘンリー。あなたはなんでお風呂から出てきたの?」
そうよ、とりあえずこれ聞かないと始まらないでしょ。
「僕もわからないんだ……。
お風呂に入っていたんだけど、気づいたらここにいて」ヘンリーの頭の上を?マークが飛び交っている。
どうやら、彼にもわからないらしい。もしかして、よく漫画とかでやってるタイムスリップ的なこと?
だとしたら、違う国からやってきたのも理解できる。時代も超えてる可能性もあるよね。「あなたはどこからやってきたの?」
私の質問に、ヘンリーは佇まいを正して答える。
「僕は、イギリスの王子。
ここはたぶん異国なのかな? 君を見ているとそんな気がするよ」私は開いた口が塞がらなかった。
こんなことって、本当にあるの?「あなたの時代は? 現代のイギリス、じゃない?」
「うん、違う気がする……。僕の母はヴィク〇リア女王なんだけど、今のこの世界もそう?」ヴィク〇リア女王って、めちゃくちゃ前の人じゃなかったっけ?
なんか世界史に出てきたような気がする。あー、もっと勉強しとくんだった。「ヴィク〇リア女王は十九世紀中盤から後半に活躍された方です」
龍が静かに口を挟んできた。
さっすが、龍。
私は心の中で、親指を立てる。それを感じ取った龍があきれたような顔をした。「じゃあ、ヘンリーは百年以上も前のイギリスから、タイムスリップしてきたってこと?」
「へー、今はそんなに未来なんだ」驚きつつ、どこか可笑しそうに笑うヘンリー。
私ほど驚くこともなく、あっさりとこの現実を受け入れたようだった。やっぱりこの人、変かも。
っていうか、何でこんなに日本語うまいの? さっきからめちゃくちゃ普通に受け答えできてるけど! 私は先ほどから感じていた違和感を率直にぶつけてみる。「ねえ、何でそんなに日本語上手なの? さっきから普通に話してるけど……」
「え? あーそうだね、何でだろう?」ヘンリーは首を捻った。
どうやら彼自身にもわからないらしい。これはあれか、やっぱり漫画的な感じ? こっちの世界にやってきたら話せるようになってた、みたいな……。
もう何が起こっても驚かないけどさ。風呂の中から出てきたって時点で、もうとんでも話だし。「まあ、びっくりはしたけど。
それより、流華に出会えたことの喜びが大きいかな、僕は」そう言ってヘンリーはキラキラした瞳で私を見つめる。
その瞳はなんだか艶っぽくて、今までそんな瞳を向けられたことのない私は戸惑うばかりだ。
私の目がクルクルと回っている。「なんだか、流華を見ていると不思議な気持ちになるんだ。
ほっとして、安心する。あたたかな気持ちに包まれ、それでいて胸が高鳴る。 こんな気持ち、初めてだよ」ヘンリーは私の手を取り、なんとその甲に口づけしてきた!
一瞬で、龍の殺気が部屋を満たしていくのを感じる。
私は恐る恐る龍の方へ視線を向けた。龍の身体は小刻みに震え、拳をきつく握りしめている。
どうにか耐えているようだが、いつまでもつかわからない。「お嬢……その男、どうするつもり……なんですかっ?」
こめかみに血管を浮かせた龍が、精一杯の作り笑いで私に問いかけてくる。
「うーん……どうするっていっても。行く当てなんて、ないんでしょ?」
私がヘンリーに尋ねると、彼は迷子の子犬のような瞳を向けてきた。
「うん。どうやって来たのかわからないから、戻ることもできないし。
この世界で行くところなんてない。君だけが頼りなんだ」ウルウルした瞳、しっぽがあれば振っているんじゃないかと思わせる態度で、媚を売ってくるヘンリー。
私って、捨て猫だの捨て犬だとかに弱かったりするんだよね。
頼りにされると、放っておけない性格というか。「お嬢!」
それを察してか、龍が釘を刺すように吠えた。
私は自分の心が理解できず、思い悩んでいた。 すると突然、ヘンリーが私を優しく抱き寄せた。 背中に回された手に力が込められ、私は驚き、息が止まった。「流華、君と出逢えて僕は幸せだよ。この幸運に感謝してる。 僕もおかしいのかな、出会ったばかりなのに、とても愛おしくて。 ……君と離れたくない」 なぜかわからないが、そのとき私の頬を涙が伝っていった。 それは今の私が流した涙というより、誰かの感情。 誰? あなたは誰なの? 私の中に、もう一つの感情が存在しているみたいだ。「何を、しているのですか?」 背後から、急に恐ろしい声が聞こえた。 恐る恐る振り返ると、やっぱり彼だった。「りゅ、龍!」 声の主は龍。 恐ろしい形相をした龍は、ゆっくりと一歩ずつこちらへと歩みを進める。 彼はおどろおどろしい空気をかもし出していて、体中に負のオーラがまとわりついているようだった。 こ、これはヤバイ。「あのね、龍。これは、私がいけないの、私がっ」 「僕が彼女を部屋へ呼んだ。そして抱きしめた」 ヘンリーは龍に向かって、堂々と言い放った。 彼の手は私の腰を抱いている。 そんな挑戦的に言わなくても! それに、そんな誤解を招くようなこと言わないで! 私の心の叫びなど露知らず、ヘンリーは龍を見据えている。 龍の放つ空気が、どんどんこの世のものとは思えない、とんでもないダークな空気に染まっていく。 こんな龍見たことない、一体どうしたっていうの? なんとかしないと、ヘンリーが殺されるかもしれない! 私はプチパニックに陥っていた。 慌てた私は、とっさに龍とヘンリーの間に立ち塞がった。「龍、落ち着いて! これは私が招いたことなの。眠れなくて、私がここにお邪魔したの。 もういいでしょ? ヘンリーを怒らないであげて」 私はおもいきり龍に抱きつい
そうだよね、いきなりこんな知らない場所に飛ばされて。不安になって当たり前。 すごく明るくて平気そうにしてるから、見過ごしてしまいそうになる。「僕は王子としてこの世に生を受けた。それはきっと普通の者から見れば幸せなことなんだと思う。 実際、住む所や着る物、食べることにも困ったことはない。 贅沢な暮らしをさせてもらってきたと思う」 ヘンリーは一度言葉を区切ると、少し寂しそうな表情をしてまた語りだす。 その表情に、私の胸が少し痛んだ。「でもね……僕はそれを幸せだと感じたことはなかった。 父上と母上と兄弟達。家族とはなんだか距離があって、他人のようによそよそしい。 友達だってよく似た境遇の者の中から適当に選ばなければならない。 すり寄ってくる者も、金や権力目当ての輩ばかりだ。 僕は自由じゃない。 将来は決まっているし、好きなことができるわけでもない。夢を抱き、それに突き進むことも許されない。 もちろん、妻になる人を選ぶことはできず、政略結婚だ。 普通の庶民が羨ましかったよ。 あんな風に、自由に生きてみたいと何度思ったことか。 ……流華、僕は贅沢なのかな?」 ヘンリーに悲しげな瞳を向けられ、私はゆっくりと首を横に振った。 彼の話を聞いていると、過去の私を思い出す。 ヘンリーのその想いは、私が抱えていた想いに似ていた。「私も、そうだよ。私の家も変わっててさ、普通じゃない。 人からはいつも遠巻きに見られ、避けられる。 何をするにしても腫物にさわるように扱われて、友達を作ろうにも誰も近づいてこない。私の周りにはいつも屈強な男たちばかりが取り囲んでた。 そんな子に近付きたくないよね? まあそのおかげでいつも守られてたけど。 父も母も幼い時に亡くなったから、両親との思い出はないし。だけど、おじいちゃんがすごく愛してくれたから、寂しくはなかったな。 私が寂しいだろうからって、いつも側にいてくれて、いろんなところに遊びに連れ
「眠れない!」 頑張って眠ろうとした。 しかし、どうしても先ほどのキスを思い出してしまい、眠りにつくことができずにいた。 だって、私にとってあれは人生初のキス、ファーストキスだった! しかも相手はタイムスリップしてきた異国の王子って、どんなとんでも話なの? それに、なんだかんだで嫌じゃなったし……というか私も望んでいた? あー! 自分の気持ちがわかんない! 私は頭を抱えると、枕に顔を埋めうめいた。 あのあと、龍はロボットのように動き出したかと思うと、淡々とヘンリーの部屋を用意し、そこに布団を敷いた。 ヘンリーに「ここで寝ろ」と一言だけ発し、龍はふらーっと居なくなってしまった。 龍……大丈夫かな。 あまりの出来事に、龍もパニックを起こしているのかもしれない。 まあ、明日にはいつもの正常な龍に戻る……だろう。 私は喉の渇きを覚え、水を飲もうと台所へと向かった。 コップに水を注ぎ一気に喉へと流し込む。 一息つくと、少し気持ちも落ち着いてきた。 部屋へ戻ろうとすると、どこからか小さく鼻歌が聞こえてきた。 耳を澄ますと、どうやら窓の隙間から聞こえてきているようだった。 裏口から外へ出て、音の出どころを探る。 どうやら、音は頭上から聞こえてきているようだ。 私は二階の方へ視線を向けた。「……ヘンリー?」 二階の窓から顔を出しているヘンリーの姿が目に入った。 鼻歌は彼のもののようだ。「流華? こんな夜更けにどうしたの?」 こちらに気づいたヘンリーが笑顔を向けた。「ちょっと眠れなくて……鼻歌に吸い寄せられたの。素敵な音色だった」 「そう? 嬉しいな。ねえ……流華、こっちにおいでよ」 トクン、胸が高鳴る。 彼の側へ行きたい、そんな思いが頭をよぎった。 どうして出会ったばかりの人にそんなことを思うのだろう……。でも、なぜかそれ
私はヘンリーを見つめ、ぽつりとつぶやく。「しばらく……この家にいる?」 「うん! 流華、ありがとう!」 ヘンリーがおもいきり、私に抱きついてきた。 お風呂上がりの彼の体温……祖父に抱きしめられて以来の人肌の感触。 心臓が激しく脈を打ちはじめる。 こんなに、人肌って気持ちいいものなの? ヘンリーの腕の中が居心地よくて、私は不覚にもずっとこの中にいたい、なんて思ってしまった。 急に顔が熱くなっていく。「お嬢……もう……俺は、無理です」 「え? ちょ、龍っ」 振り向いて龍の顔を確認したかったが、ヘンリーの腕に邪魔され確認できない。 次の瞬間、龍に吹っ飛ばされたヘンリーが目の前の壁にめり込んだ。「ヘンリーっ! 龍! ちょっとは手加減しなさい!」 私は怒りながら龍へ視線を向ける。 龍は私から顔を背け、真顔で突っ立っていた。 その態度は、何も悪い事などしていない、と言っているようだった。 また私は、壁にめり込んでいるヘンリーを急いで救出する。「……大丈夫っ? ごめんね、何度も」 龍にやられる度に、ヘンリーの浴衣は少しずつはだけていた。 はだけた浴衣から覗く白く綺麗な肌。 それを目撃してしまった私は、顔を赤らめた。 そんな私の様子に、ヘンリーはくすっと笑う。「本当に、君は可愛いね。 まだ何も知らないの? 僕が教えてあげたいな」 私の顔はさらに赤くなっていたに違いない。 それより、龍の殺気がとんでもない事態になっていることに気づいた私は、咄嗟にヘンリーを背に庇った。「龍、駄目よ、まって!」 「そうだよ、龍さん。いくら流華が可愛いからって独り占めはよくない」 「なっ……」 龍の顔が怒りに染まった。 今にもヘンリーを殺しそうな顔をしている。 まずい! 龍を鎮めなければ。 そのとき、背中に
「僕の名前は、ヘンリー・エドワード・ローレンス。ヘンリーと呼んで」 彼は可愛い微笑みを向け、平然とそんなことを言ってきた。 はい? やっぱりこの人変だ。どこかで頭でも打ったのだろうか。 いや、そもそも風呂から出てきたんだから、人間じゃないのかも。 宇宙人とか? いや、でも地球人っぽいし。 まあ、確かに外国人っぽい顔してる。うん。あ、外国人さんはいろんなところから出てこられるとか? いや、そんな話聞いたことないよ。 私の頭の中はプチパニック状態だ。 呪文のように、落ち着け、と自分に唱えながら、私はヘンリーに笑顔を向けた。「うん、ヘンリー。あなたはなんでお風呂から出てきたの?」 そうよ、とりあえずこれ聞かないと始まらないでしょ。「僕もわからないんだ……。 お風呂に入っていたんだけど、気づいたらここにいて」 ヘンリーの頭の上を?マークが飛び交っている。 どうやら、彼にもわからないらしい。 もしかして、よく漫画とかでやってるタイムスリップ的なこと? だとしたら、違う国からやってきたのも理解できる。時代も超えてる可能性もあるよね。「あなたはどこからやってきたの?」 私の質問に、ヘンリーは佇まいを正して答える。「僕は、イギリスの王子。 ここはたぶん異国なのかな? 君を見ているとそんな気がするよ」 私は開いた口が塞がらなかった。 こんなことって、本当にあるの?「あなたの時代は? 現代のイギリス、じゃない?」 「うん、違う気がする……。僕の母はヴィク〇リア女王なんだけど、今のこの世界もそう?」 ヴィク〇リア女王って、めちゃくちゃ前の人じゃなかったっけ? なんか世界史に出てきたような気がする。あー、もっと勉強しとくんだった。「ヴィク〇リア女王は十九世紀中盤から後半に活躍された方です」 龍が静かに口を挟んできた。 さっすが、龍。 私は心の中で、親指を立てる。それを感じ取った龍があきれたような顔をした。「じゃあ、ヘンリーは百年以上も前のイギリスから、タイムスリップしてきたってこと?」 「へー、今はそんなに未来なんだ」 驚きつつ、どこか可笑しそうに笑うヘンリー。 私ほど驚くこともなく、あっさりとこの現実を受け入れたようだった。 やっぱりこの人、変かも。 っていうか
その日は、祖父がちょうど留守だった。 祖父は根っからの温泉好きで、月に一度はどこかの温泉へ二泊三日で旅行へいってしまう。 いくら理解のある祖父とはいえ、風呂の中から人が出てきたなんて聞いたら心臓に悪いだろう。 今日が温泉の日で本当によかった。あとでゆっくりと説明できる。 それにしても……。 目の前には龍が用意した浴衣に身を包み、用意された布団ですやすやと気持ちよさそうに眠り続ける男がいる。 良く見ると綺麗な顔をしている。 美少年……と表現するのがしっくりくるだろうか。私は普段いかつい男たちしか見ていないから、そう思うのだろうか。 まあ、龍もなかなかの美男だとは思うが。「お嬢、何をじっと見つめているのですか?」 私が男の顔をまじまじと見つめていると、龍が訝しげに私を窺ってきた。「あ、いや……別に」 私としたことが男に見惚れるなんて、失態だ。 しかし、この男はある人物にそっくりだ。 私を助けてくれた彼に……。 一ヶ月程前のことだった。 私は暴漢に襲われた。 そのとき私を庇い、怪我をした男性がいた。 彼は頭を打っており、打ちどころが悪かったらしく今も意識が戻っていない。 彼は今、病院のベッドの上だ。 驚くべきことに、その男性と今目の前で寝ているこの男の顔が、そっくりなのだ。 これは偶然なのだろうか……なんとも不思議な出来事だ。 瓜二つの人間に、次々関わり合うことになるなんて。 しかも、一方は命の恩人で、もう一方は風呂から現れた謎の男。 ……摩訶不思議。この世にはまだまだ知らないことが多い。 さて、どうしたものか。 私は確かにこの目で目撃したのだ。 風呂の湯の中から出てくる、この男を。 夢? ではないと思う。 ずっと意識があるし、なんだかすごくリアルだし。「う……ん……」 眠っていた男が、突然意識を取り戻した。 目がうっすらと開きかける。 私と目が合ったその瞬間、彼はガバッと勢いよく起きあがり、私の手を握ってきた。「美しい……」 「は?」 男がつぶやくと、突然、龍の鉄拳が振りおろされた。 床に顔がめり込むんじゃないかと思う勢いで、彼の顔は下へと叩き落された。「んがっ! ……い、いた……い」 「ちょ、ちょと! 龍、いきなりそんな